Deep Sky Memories

横浜の空で撮影した星たちの思い出

天体写真を撮ること、天体撮影について語ること

僕みたいな一般人が貧弱な機材で天体写真を撮ることの意味ってなんだろう。綺麗な天体写真を見たいなら、そういう本はいくらでもあるし、NASA のサイトに行けば人類史上最高レベルの天体写真を無料で飽きるまで眺めていられる。

純粋に天体を見たい、知りたい、ということであれば、ハッブル宇宙望遠鏡のような最高の機材で撮った写真を見るのが一番だ。どうしても自分の眼で見たいのなら望遠鏡を所有して好きな時に眺めるというのも悪くはないが、写真を撮るとなるとどうだろう。

一部の天文現象を除けば、たいていの天体写真はいつどこで誰が撮っても基本的には同じ写真にしかならない。天体はいつでも誰にでも同じ姿しか見せないので、ベストな撮り方はだいたい決まっているし、あとは単線的なクォリティの差でしか差別化できない。

そしてクォリティの差は圧倒的に機材の差から生まれてくる。結局のところ、いかにハッブル宇宙望遠鏡レベルの写真に迫るものを撮ることができるか、という話になる。それならハッブルが撮った写真でいいのでは?

通常、一般人が撮った天体写真にはオンリー・ワンな要素は全くない。ハッブルが撮った写真にはない特別な何かなんて何一つない、ただの写りの悪い写真でしかない。そんなものをなぜ撮るのか?

影技術を身につけること自体が楽しいということはある。これだけの機材でどこまでの写真が撮れるか極めたい、という楽しみ方はあるだろう。しかし、大抵の人は撮れば撮るほどもっといい写真を撮りたいと思うようになり、より高価な機材に手を出すようになるのだから、そういった楽しみ自体はあまり本質的でないように思える。

それではなぜ?オンリー・ワンな要素はないと言ったが、しかし、自分が撮った写真は自分にとってだけは特別だ。僕自身、自分で撮った天体写真をたびたび見返しては何とも言えない気分に浸ることがよくある。そんな時の気分にはハッブルの写真を眺めるのとは違う何かが確かにある。

それは旅行で撮った写真を見返して旅先での思い出に浸るのに似ているように思う。旅先の思い出と言っても色々あるが、苦労してその場所に辿りつけた、その場所の空気に触れた、という感慨のようなものの記憶のことだ。

と言っても、僕はほとんど旅行をしない人なので、思い出のそういうところを振り返るのが一般的なことなのかよくわからない。普通は土地の人とのふれあいや同行した友と語り明かした思い出などを振り返るものなのかもしれないが… それでも天体撮影と旅行には何か共通点があるように思える。

こういうのはどうだろう。光の強さは距離の2乗に反比例して弱まる。だから肉眼に比べて100倍の光を集めて天体写真を撮ることは、その天体との距離の10分の1の距離まで近付いて見るのと同じだ。1000万光年先の天体なら100万光年まで近付いて、つまり900万光年旅したのと同じだ、と。

これはさすがに嘘っぽい気もする。あまりに理屈っぽいし、実際そんなことを考えて天体撮影を始めたわけでもないし。でも、そういうふうに考えるとちょっとだけワクワクしてくるのもまた事実だ。

天体写真を撮るたびに誰が読むともわからないとりとめのない記録を書き残すのも、旅人が旅行記を書き記すのとどこか似ている気がする。記録を残すこと、その記録を誰かが読んで証人となること。そういったことで旅の体験がより確かなものに感じられるようになる。

普通の旅なら写真自体が記録になるが、天体写真の場合、写真そのものは上手いか下手かという点以外には他人の撮った写真との区別がつきにくいだけに、どうやって撮ったのかという記録が自分の「旅」の証となる。

天体写真の撮影記は技術的なあれこれが多くなりがちで天文の趣味のない人にはあまり面白みのない記録かもしれないが、なにやら頑張って少しでも天体に近づこうと努力しているのだと理解してもらえれば嬉しい。

自宅のベランダや近所の公園に出るだけで宇宙旅行気取りというのもなんだか滑稽かもしれないが、むしろ「見るだけなら宇宙は意外と近い」とも言えるのではないか。北斗七星がやっと見えるぐらいの街の夜空でも、ちょっとした機材と技術があれば様々な天体に近づけるのだから。